深夜の犬たち

数時間ほど残業した後の帰り道でのことである。
このあたりは夜の9時を過ぎると人通りが途絶える。道の両脇はほとんどビルで、大きなビルはみなオフィスだからこの時間、窓は全部真っ暗になっている。小さいビルも1階の窓はどこも真っ暗だが、二階や地下に降りる階段のところに明かりがついているビルも少しはある。そんなビルの前には必ず小さな看板が立っていて、地上から外れた酒場へと歩行者を誘っている。

そんな寂しい道を凍えながら歩いていると、どこかから犬がきゃんきゃんと叫び立てる声が聞こえてきた。声のする方を見ると、通りの反対側に確かに犬はいた。でもその犬が吠えているわけではない。そばに付き添う主人に歩調を合わせ、きゃんきゃん声など無視して悠然と歩いている。吠えている犬の姿は見えない。神経質そうな犬の鳴き声だけがビルの谷間に響いていた。

道に面した建物はみなビルだから外で吠える犬などいそうにない。いるとしたらそこからさらに奥にひっこんだあたりだろう。その辺だと庭付きの建物がないでもない。
しかしそんな場所は、通りから少なくとも5メートルは引っ込んでいるはずで、そんな見えないところからでも犬は同類の存在を嗅ぎつけられようだ。その感覚の鋭さには大いに感心させられるが、そんな見えないところすら自分のテリトリーだと主張して侵入者に対して神経質に威嚇するあたり、犬はやはり狭量な生き物らしい。


ところがその姿の見えない犬は、散歩する犬が遠くに歩み去った後でも、相変わらずきゃんきゃんと吠え続けている。こうなると犬が少し憐れに思えてきた。散歩していた犬が残した匂いや気配がまだそのあたりに残っていて、あの犬はその虚像に向かって吠えているのだろうか。
それとも吠えている相手は犬じゃないのかもしれない。ひょっとしたら自分は散歩には連れていってもらえないので、それを恨みに思って吠えているのかもしれない。確かにあの神経質なきゃんきゃん声はストレスが溜まっている証拠にも聞こえる。そうなると吠えている相手は同族ではなく自分の主人ということになる。
あるいはひょっとすると犬の世界にもRFCのようなものがあるのかもしれない。
まず犬は自分の近くに来た犬に吠えかける。そして吠えられた犬は必ず一声は吠え返す。そういうプロトコルになっているのかもしれない。そうだとすると我々がケンカだと思っているあの犬の吠え合いは実はある種のシェイクハンドということになる。
ところがあの散歩する犬は、犬の世界の掟より主人に迷惑をかけない事を優先して、あの呼びかけを無視してしまったのだ。にも関わらず姿の見えない犬は、同族が掟を守ると信じて延々とリコールを続けているのだろうか。

そんな風に姿の見えない犬に思いを馳せて道を歩いていたら、また散歩中の犬に出会ってしまった。まあこの辺深夜に散歩する犬は珍しくもない。でもこの犬はさっきの凛々しい顔で悠然と歩く犬とは大違いで、主人らしき爺さんが見守る中、緩みきった表情で片足上げて歩道脇の電柱目がけて小便を放っている。
いやあ、これが犬ですよ、犬。さっきの犬なんか家に帰り着くまで絶対おしっこもうんちもしないだろう。それどころかワンの一声すら発するかどうか怪しい。そんな犬は犬である必然性はない。実はあの犬、中にAIBOがいたのかもしれない。それに比べてこの小便している犬、さも当然という感じで見守っている爺さんも含めて、人間味というか犬味に溢れているぜ。
きっとこの犬なら義理を欠くようなことはしないだろう。この犬がこのまま歩いていけば例の犬がいる場所にさしかかる。そこできゃんきゃんと吠えられたら、この犬はちゃんと吠え返すに違いない。そしてシェイクハンドが成立して、あの姿の見えない犬の深夜の孤独も少しは慰められるかもしれない。近所迷惑な事態にはなるのかもしれないが。