雑貨屋娘現る

昼飯を食った帰りに、女の子に呼び止められた。
より正確に言うと、向こうからぷらぷら歩いてきた女の子がすれ違いざまに立ち止まり、こちらをじっと見つめたのである。
なんだろうと思い、足を止めたが、瞬間、しまったとおもった。治安の悪い国では路上で停車するのは自殺行為だ。車を止めた瞬間、強盗が襲いかかってくるからだ。東京の路上で立ち止まるのも同じくらい危険だ。足を止めた瞬間、手相見やアンケートおばさんやキャッチセールスが襲いかかってくる。とはいえ足を止めてしまったものは仕方がない。
それに相手の様子を見るにずうずうしい目もいっちゃったような目もしていない。二十歳くらいのとっぽい感じの女の子がこちらの様子をうかがうような眼差しで僕を見ている。妄想的な世界なら「突然すみません、でもあなたのことがずっと好きだったんです」とかいろいろ楽しい方向に向かうのだろうが、現実世界においてありえない可能性を消去していくと、ありうる展開はひとつしかない。たぶん道を聞かれるのだ。僕は見た目だけは善良で親切そうなのでよく道を聞かれる。東京ならともかく旅先でもよく道を聞かれる。なんかのガイドブックに道を聞くのに好適なタイプの男性とかいう図解が載っていて、そのタイプにぴったりあてはまるのだろうか。僕は。
僕はこのあたりの地図を頭の中で広げた。女の子は今少しこちらの様子をうかがっていたがようやくぼそぼそとしゃべり始めた。ところが女の子の口から出てきたのは、こちらの予想を裏切るもので、なおかつ記憶の範囲内の言葉であった。
「ルーズっていう雑貨屋で、いま在庫処分のキャンペーンをやっているんです」
これでピンと来た。こんなのだけはいつも0.1秒でピンとくる。ピンと来るたびに無駄にいい記憶力だなと思う。でも今回は少しは役に立った。
半年に一回くらい、会社に妙な女の子がやってくる。上野の雑貨屋で在庫処分のキャンペーンをやっているんだそうな。確かその雑貨屋もルーズという名前だったはずだ。オフィスサプライのセールスならともかくソフトウェアハウスにルーズなんて女子高生御用達みたいな名前の雑貨屋が売り込みに来る理由は謎である。
なんてこった。この女の子も手相見やアンケートおばさんの類だったか。しかし飛び込みだけじゃなく路上営業もやっている雑貨屋ってどういう雑貨屋だよ。
このような情報に基づき僕は逃走する体制を着々と整えていたのだが、こちらに素性を見抜かれているとは知らない女の子は足下に置いたガラクタがいっぱい入ったトートバックからアルミ色のものを取り出して僕に差し出した。携帯電話に見えた。
携帯電話を在庫処分に売る雑貨屋。まずますもってよくわからない。
僕がもっとずっと暇で話術にも長けていて好奇心も旺盛であれば、この女の子から謎の雑貨屋ルーズの秘密をあらいざらい引き出した上に、何も買わずに「じゃあね。がんばってね」とかいいつつ去っていけただろう。でも好奇心はともかく、昼休みは終わりに近い上に、話術というものは元からない。それに長々と話し込んだ上で何も買わずに去っていけるほど鬼畜でもない。このあたりがネタのためなら女も泣かすアルファブロガーRFCのためなら聖戦も辞さないモヒカン族と僕を隔てる大きな壁なのだろう。
僕は書店で買ったばかりの文庫版「スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)」が収まった右手を軽く振って拒否の意思表示をするとその場を立ち去った。こういう時は会話が成立する前に逃げるのが正解である。女の子は通りかかった別の男性を捕まえようとしたが立ち止まってすらもらえなかった。でもあんな立ち止まってじっと見る作戦では、せかせかと歩く都会の男性には普通存在すら気づいてもらえないと思うぞ。それにあのこっちの様子を伺うような態度ではケータイどころか飴一つ売れるとは思えん。もっと強引にうりこまんと。
田舎出かな。東京に出てきたばかり?全体にあか抜けていない感じであったし。
こうして昼休みの小さなハプニングは終わった。残ったのは謎の雑貨屋に対する深まりゆく疑念ばかりである。
とりあえずググッてはみたが、手がかりは何も見つからなかった。