日本人と投げ銭
世の中どんなことでも先達、メンターは必要である。今時メンターがいない奴は非モテよりも酷い扱いを受ける。だから投げ銭にもメンターは必要なのだ。
そして投げ銭のメンターにふさわしいお方は誰かというとこの方しかいない。
捨丸様である。
隆慶一郎の傑作、男のバイブル、一夢庵風流記*1のラスト。コミックスだと徳間のやつが刊行途中なので集英社版で読むしかないが、この巻だけがちょっと分厚い18巻*2の最後の最後。天下の武辺者にして希代の傾奇者前田慶次が今日を限りに京を去るというその日、前田慶次と従者捨丸は傾奇終いと四条河原に銭函抱えて繰り出した。銭を目当てにたちまち出来る人の群れ。そして捨丸は銭を掴んでこう口上を述べる。
「銭まくど、銭まくど、銭まくさかい風流せい!」
加賀出奔以来の前田慶次の軌跡を見つめてきた読者にとっては涙なしには読めない場面だ。だからここはコミックス版の解釈を取りたいというのはさておき、銭を投げるにあたっては、人はやはり捨丸様のごとくありたい。
みな考えすぎなのである。
捨丸様は何も考えていない。適当に銭を掴んで適当なところ目がけて適当にでいと投げる。それだけである。
拾うほうだって何も考えていない。ただ頭の上に銭が飛んできたから適当に拾う。それだけである
おお、あいつは上手い踊りを踊っているから余計に銭まいちゃれとか、おお、俺にところに余計に銭が飛んできた。捨丸様のお目にとまったぞ、とか余計なことは誰も考えちゃいない。銭をまく。拾う。そして歌って踊って風流する。それだけである。
これが投げ銭のあるべき姿だ。
思うに皆、くだらないことばかり考えすぎた。そもそも「投げ銭=大道芸」という最初の想定がボタンのかけちがいだ。日本人が銭をまくのは棟上げ式に見られるように景気づけのためなのである。銭をまくという行為自体が一つのパフォーマンスなのだ。お賽銭だっておひねりだってありゃ投げるという行為自体が快感なのだ。
ところが既存の投げ銭システムにはこの快感がない。銭のつぶてがが賽銭箱や舞台目がけて雨やあられと飛んでいくというあの素晴らしい光景が見られない。日本人は奥ゆかしい。ついでに言えば付和雷同だ。だから一人で銭を投げる勇気はない。一人で拾う勇気もない。逆に言えばみんながぼんぼん銭を投げる中に混じって銭を投げたり、拾ったりすることは出来る。だがWebの投げ銭にはこれがない。銭がまかれたり拾われたりするのはバックグラウンドだ。
おそらく日本で投げ銭システムをまともに機能させるには、みんなが銭を盛大に投げまくり拾いまくっているという状況の出現、認知、さらには可視化が必要だと思う。つまり祭が必要なのだ。
だがそんなものを待っちゃ居られない。ではどうすればいいかというと祭が来るまで銭をまくしかないのである。だから今日も銭をまくのだ。
さあ皆さんご一緒に!
「銭まくど、銭まくど、銭まくさかいブログせい!」