親の供養と面接試験

もちろん喫茶店で他人の会話を盗み聞きするなんて不作法なことは普通やらない。だが、「親の供養」などという刺激的な言葉があっちから飛び込んでくれば話は別だ。
「親の供養」が飛び交う会話の主は隣のテーブルに座った男性二人。片方は大学生風で熱心にノートにメモを取っている。やや老けて暑苦しい感じ。黒い太縁の眼鏡と、あごからちょぼちょぼ生えた無精ヒゲが暑苦しさを20%はアップしている。
もう一人は細面。顔に皺がある年齢としかいいようがない。老けた三十代とも年相応の四十代とも若い五十代とも見える。口調からも年は不明。年齢を感じさせないニュートラルな話し方をする。職業からか話す事に慣れているようで彼の発言はとても聞き取りやすかった。雰囲気的に緩い教職、恐らく大学の先生あたりか。この組み合わせでいくと二人の関係は指導教官と学生というところだろうか。
で、親の供養とは何かというとこういうことだ。傍受した会話によると大学生の方は英語の教師を志望しているらしい。そしてその志望理由が親の供養なのだそうな。彼の父親は大学三年生の時に亡くなったのだが、その父親は欧州方面で仕事をしていて彼の地において客死したらしい。また個人的にも彼の父親は欧州の文化に傾倒していたようで、だから自分が外国語の教師になるのは親の供養とだと思っているらしい。
泣かせる話だがもちろん裏がある。大学生は指導教官から教職の採用試験を受けるためのマンツーマンの指導を受けている最中だったのだ。なんでそんなものを日曜昼間の喫茶店でやってるのかは謎だが。そしてこの親の供養というのは、「なぜあなたは英語の教師になりたいのですか」と面接官に訊かれた時に答える解答案らしいのだ。この親の供養という動機について大学生が本心ではどう思っているのかはわからない。だが彼の口調からは、「亡くなったお父さんのために英語の教師になるんだ」と思いこむ人間にあるべき切実な響きというものが聞こえてこなかった。
もっとも大学生には親の供養をダシにしてでも面接試験に受かりたいといういう切実な理由はあったようだ。彼は神奈川在住らしいのだが、彼が受けようとしている教員採用試験はなんと愛知県のもので、しかも彼には愛知県の教育界に対する接点もコネもないらしい。なんのコネもないところに乗り込んでいって教職に採用してもらおうというのだ。親の供養というハッタリの一つは欲しいところだろう。
しかしここで問題が一つ生じた。親の供養というのは英語の教員になりたいという動機としては十分すぎるものだが、神奈川在住の大学生が愛知県の教員になりたいという理由を説明するものではない。だから親の供養とは別に、彼には愛知県で教職に就きたいという動機が必要となった。考えてみるにおかしな話だ。神奈川在住の人間が神奈川の地を離れて愛知県で教職に就きたいというのであるから、そこにはなにか大変に切実な理由があるはずだ。それを素直に面接官に話せばいいだけのことに思えるが、どうもそういうわけにはいかないらしい。大学生君が愛知県の教員採用試験を受けたい理由は、二人の話を聞いていてもまったくわからなかった。でも推測するに、その理由というのがとても切実で、早い話が処世術的なものなので、採用試験の面接官に話すわけにはいかないのだろう。勤務地は大都市圏がいいのだけど東京や神奈川は競争率が高いので愛知県にしましたとかそういうあたりか。
指導教官からそこらへんのことを突っ込まれた大学生は愛知県で教職に就きたい動機として、「トヨタという世界的な企業を生み出したところで働きたい」というものを挙げた。この愛知=トヨタという発想があまりに貧困で、しかも「じゃあ君は学校ではなくトヨタに就職すればいいじゃないか」と突っ込まれかねない回答案は賢明な指導教官により即座に却下された。結局、大学生君の表向きの愛知志望の動機は、愛知県の風土を考慮した「堅実な土地柄で仕事に就きたい」というあたりに落ち着いたようだ。
二人の会話はこのように、学生の方がまず何かネタを出して、それを指導教官が面接試験でで話すにふさわしい体裁に昇華していくという形式で進んでいった。ことによると「英語教師になりたい=親の供養」というストーリーも指導教官の方がひねり出したのかもしれない。親の供養なんて発想はともかく、言葉の方は学生が思いつくようなものではないだろう。
僕は適当なところで席を立ったので、この後の二人の会話がどういう方向に進んだかはわからない。また大学生が見事、愛知県の教員採用試験に受かるかどうかも見当がつかない。おそらく大学生は、面接官の「なぜ英語の教師になろうと思うのですか?」、「なぜ愛知での教職を希望するのですか」という問に対して、「親の供養です」、「堅実な土地柄で仕事に就きたいのです」という、表層はともかく内実は空虚な答えを並べるのであろう。そこまでは見当がつく。だが面接官の方がどう評価するのかはわからない。空虚な答えだとして駄目を押すのか。あるいは内実などという文学的でフィクショナルなものはどうでもよくて、表面に現れた物語の出来がよければそれを評価するのだろうか。