ブログ時評炎上

11月25日の日記でちょっと突っ込んだ団藤保晴氏のブログ時評ですが先週末盛大に炎上してしまいました。 (http://dando.exblog.jp/1261816/)切込隊長山形浩生氏まで参戦。しかも団藤氏はぶち切れて匿名コメント削除の挙に出る始末。いやすごいなあ。
ほとんどネット初心者の振る舞いである。問題はこの方がネットジャーナリストの最古参を自認しているということだ。
ところで今でこそ団藤氏は水に落ちた犬状態なのだが、開店日の11月25日の時点で批判的なコメントやトラックバックを飛ばしたのは僕1人だけらしい。後は、ある人を間接的に批判する事になってちょっと心苦しいのだが、開店祝いの花輪みたいなトラックバックが並んでいるだけである。
僕なんかあの最初の記事を読んだだけでやばい事になりそうだと思ったのだが、みんなはそうは思わなかったのかねえ?

追記

正確に言うとあの記事だけではやばいとはわからないけど、あそこでリンクされている「インターネットで読み解く!」の第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」を読むとやばいことになりそうだとわかる。だって半年前まで「本場の米国でも広く読まれているブログは極めて少数で、大部分は自己満足の世界と言われている。」(第146回 メールマガジン全盛期は終わった)なんて書いてた人が

ネットにも精通しているプロジャーナリストの目から見て「その計画は無理ですよ」と申し上げるしかないが、それだけで良いだろうか。ツールをもう一つ用意すれば、日本のブログの世界を大化けさせられる可能性がある――これは座談会で北田暁大・東大助教授とも意見が一致した点である。

世界で日本だけにしかない「メールマガジン」と「個人ニュースサイト」を組み入れたら、連載の第128回「ニュースサイトが生む津波アクセス」で指摘したように最大で数十万のアクセスを引き起こせ、マス・コミュニケーションとして十分な規模になる。これを「てこ」にすればブログの現状を変えられるはずだ。

なんて言うんだもん。で、そのブログを変革するツールたらんとしたのが「ブログ時評」でしょう。
ブログ初心者がブログの世界を革命しようってわけで。
こういう言葉使いたくないけど「夜郎自大」としか言いようがないですよ、これは。
ちなみにこの「北田暁大・東大助教授」は下に出てくる北田さんです。どうして止めなかったんですかとか言うてみる。

{book][blog]ised@glocomと「ゴルギアス」

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)


最近、プラトンの「ゴルギアス (岩波文庫)」を読んでいる。
ついでに、ised@glocomの「倫理研第1回研究部会の議事録」も読んでいるのだが、議論中の以下の部分

北田:運動をやめざるをえない臨界点もある、というニュアンスです。たとえば「ゲーム脳の恐怖」(森昭雄 著、生活人新書、2002年)と呼ばれる新書がありましたが、その内容が持つトンデモ科学性を暴くムーブメントというのが、ゲームを支持する世代を中心にネットで起こりましたよね。精神分析医の斎藤環氏による脳科学的にきっちり批判した文章*6というのがネット上にあって、これに皆でリンクを張ることで、検索エンジンの検索結果で当の本の紹介ページよりも上位に来るようにしようという運動*7で、みんな盛り上がって参加していました。しかし、たぶんあそこに参加した人の99%は、批判の内実をわかっていないと思うんですよ、それはつまり非常に専門的なことなので、相当に勉強した人じゃないとわからない。もちろん僕だってわかりません。だけれども、とにかく善悪図式だけが存在し、わかりやすいキャラクターがいて、敵もはっきりしている。こうして運動だけが自律化していくということは、逆に、内容が専門的になればなるほどにありうることだと思うんです。

辻大介:まさに『反社会学講座』の一般読者層での受容のされ方というのが、「これまでマスコミが流してきた統計の使い方はやっぱり嘘っぱちだったんだ、ヤッター!」で終わりなんですよね。そこから先の議論、では少年犯罪が減ってないとすれば本当にこれは安心していいのか、どういう風に考えていけばいいのか、という議論がまったくそこから出てきていないんです。そういう点でたしかに北田さんもおっしゃったように、専門知を持ったオーソリティーというのが運動の「旗印」にだけ使われて、旗を振っている人自身は旗の中身がわかっているのか、ただ旗を振っているだけ、という形の危険性が十分にあるんじゃないかと思うんですね。つまり、オーソリティーが「啓蒙」の旗を掲げることが、逆に「啓蒙」に結びついていかずに、「権威」のみが取り出され、内実がブラックボックスのまま不問に付された錦の御旗化してしまう。

は「ゴルギアス」の以下の部分に相応するのだろうか?(454C以下、)


ソクラテス:(前略)あなたは「学んでしまっている」ということがあるのを認めますか。
ゴルギアス:認める。
ソクラテス:では、どうでしょう。「信じ込んでいる」ということは?
ゴルギアス:それも、認める。
ソクラテス:それでは、学んでしまっているのと、信じ込んでいるのとは、つまり学識と信念とは、同じことだと思いますか、それとも、別のことでしょうか。
ゴルギアス:わたしは、別のことだと思うがね、ソクラテス

ゴルギアス (岩波文庫)岩波文庫版 33頁

やはり古典は奥が深いのう。しかも表現が簡潔である。
この議論は、学ぶことも信じ込むことも説得されていることには変わりなく、ゆえに説得には二種類あって「一つは、知識の伴わない、信念だけをもたらす説得であり、もうひとつは、知識をもたらす説得である」(454E)と進んでいく。そして弁論術というのは前者、信念だけをもたらす説得と断定され、以下ソクラテス、つまりプラトンによる弁論術批判へと続いていくのだ。
ところで上に上げた事例はどっちなのだろう?「信念だけをもたらす説得」なのか?それとも「知識をもたらす説得」なのか?
ゲーム脳の恐怖」の批判者も『反社会学講座』の著者も「知識をもたらす説得」を意図しているのは明らかである。しかし説得の受け手の方は「信じ込んでいる」。したがってどちらの活動も結果を見れば「信念だけをもたらす説得」になってしまっている。
これはどういうことだろう?プラトンは説得というものを説得する立場から論じ、また批判をしたわけだが、実は問題は説得される方にあるのではないか?
ちなみに僕の哲学的立場(笑)を言うと「学識と信念とは、同じこと」なのだ。だからこういうパラドックスはあまり気にならないのだ。

追記

ised@glocom関連のページを読んでいくとこんなものも発見

「エリートが設定」と書くと、すぐにソビエトナチスのイメージが飛んでくる。それはわかるんだけど、あまりにも短絡的じゃないかな。kagamiさんは、私が『最高の理性と知性が社会を支配すべき』と書いたように書いてるけど、私はこう書いてる。

個別具体的な政治的決定については、民主的プロセスで決定することが、おそらくもっとも望ましいんだろうけど、民主的プロセスが動作する基盤は、最高の理性と知性をもって設計し、設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか。それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、強く影響するという危険があるわけだけど、なんとも仕方がないんじゃないかと思う。

哲人国家ですか?
少なくとも哲人が制度を設計すべき?

やっぱ時代はプラトンを求めているのだなあと直感する。