ネットで妄想が生まれる瞬間


Googleラテン語について調べてみたら昨年亡くなった経営学ピーター・ドラッカーラテン語について述べている文章にぶつかった。

かつては、むしろ役に立たない知識、生きていない知識が教養とされた。ドラッカーはその典型として、ラテン語教育を挙げる。欧米ではいまだに教養としてラテン語を教えている学校があると指摘する。論理性を養うとか、他の外国語を学ぶ基礎になるとかの理屈を付けている。開き直って、役に立たないからこそ教養なのだとの説もある。

(中略)

ドラッカーによれば、論理性うんぬん等のラテン語擁護論が現れたのは、書き言葉が、ラテン語から各国それぞれの国語に変わった後のことである。せっかくのラテン語擁護論も、ラテン語教師の失業防止策ととられても仕方のない面がある。ドラッカーは学校の科目も新陳代謝がなかなか行われないと嘆いている。

ところが「ドラッカーラテン語」で検索するとこんな文章もひっかかってくる。

1919年(一〇歳)
ウィーンのギムナジウムに入学。8年間通うが、ギムナジウムラテン語ギリシャ語の文法で記憶力を鍛える場所でしかなかった。

この二つの文章を並べて読むと「ドラッカーは子供の頃の恨みを忘れなかったのだろうなあ」と思えてしまう。かの偉大な思想家の原動力となったのは、少年期のラテン語教育に対する復讐心ではなかったかとすら思えてくるのだが、もちろんこれは邪推である。
ネットでは簡単に妄想のタネが生まれる。字面の上だけでも関係がありそうな文章をふたつ見つけるだけでよく、そして二つの点を結ぶ曲線は無数に存在する。