美味しんぼの富井副部長になってしまった私


美味しんぼ (93) (ビッグコミックス)

美味しんぼ (93) (ビッグコミックス)



土曜日の午後、僕は街中で栄養失調になってしまった。その日は朝からバタバタしていたので昼飯を食いそびれていたのだ。そこで近くのまぐろ市場とかいう海鮮丼屋に緊急避難することにした。


幸い店内はがら空きだった。レジではおばさんの団体が精算中の他に客はいない。ところが席に座ろうとしたところを店員に呼び止められ、15分ほどお待ち頂けますかと聞かれた。混んでるわけでもないのになぜだろうと思ったら、どうやらご飯が切れてしまって新しいのが炊きあがるまで15分かかるらしい。
なんてこった。さっきのおばさん連中が食い尽くしたに違いない。しょうがない。近くの吉野屋でも探すか。


でもすぐに店の奥の方からお一人様なら大丈夫ですとの声が帰ってきた。ありがたい。どうやら待たずに済みそうだ。
僕は少し間が悪いところがあって、いつも1人か2人くらい前のところで締め切りとか売り切れとか満席とかの憂き目にあう。だが今日という日ばかりは久米田康治風に言えば日常に潜む危険なオフサイドトラップをかいくぐる事が出来たようだ。人生たまには少し良い事があるのかな。


おかげさまで頼んだマグロ丼豚汁付きは注文して五分と立たないうちに出てくる。そのマグロ丼を有り難くかっついていると、客が何人か入ってきた。しかし皆、店員のおばさんに15分まってくださいと言われ、仕方なく席についてプラスチックのコップから水など啜っている。
店内を見回すとカウンターばかりで広いとは言えないが20席ばかりある内で身のある物を食しているのは僕だけである。店の奥の方には電気釜の親分みたいなのが三台並んでいて、白服の男性店員が前に張り付いている。
今ちょうど米を炊いているところで、あそこから飯が出てこないうちは僕以外の客は誰1人海鮮丼にありつけないのだろう。我ながら小心者だとは思うが、ささやかな優越感を感じる瞬間である。ほんと残り物には福があるってものだ。


しかしその電気釜を眺めながら丼を平らげているうちに、ふと不味い事に気がついてしまった。僕が今食っている飯はあの「お一人様なら大丈夫です」というやりとりからして、おひつの底から1人分の飯をどうにかかき集めてよそってきた残り物に違いない。
一方今飯を待たされている僕以外の客は全員、あの電気釜から出てくる炊きたての飯にありつけることになる。チェーン店の丼物とはいえ大きな釜で炊いた炊きたての飯と、底からかき集めた残り物の飯とどちらが美味いのだろうか。
そんなことを考えているうちに、僕1人だけが早々と飯にありつけて得をしたような気になっているのは大きな誤りで、実は1人だけ不味い飯を食わされているというのではないかという疑念がふつふつと湧いてきたのであった。まるで狐に騙されて馬糞の飯でも食わされているような気分である。
いかん。食い物でこんなひがみ根性が出るのとは、まるで富井副部長ではないか。


富井副部長。「美味しんぼ」の主人公、山岡士郎の上司である。「美味しんぼ」は僕にとって二十世紀に置き去りにしてきた漫画だが、それでもみみっちい貧乏ネタのエピソードでは富井副部長がメインになることくらいは覚えている。これが食材の高いネタとなると欧州帰りの風をいつまでも吹かせている小泉局長の出番となり、みみっちさが政財界的なスケールを帯びてくると大原社主の御出馬とあいなる。


それはさておき、この状況を美味しんぼのフォーマットに当てはめるとこうなる。
なんかの間違いで抜群の功績を挙げてしまった富井副部長、あのケチな大原社主から金一封までもらえてしまう。


仕事をしたのはあたしたちなのに自分1人の手柄にしてとか、すみっこでぶつぶつ言われている編集部に戻った富井副部長。珍しく大きな気分になっているので、功労賞は君たちのおかげだから今日は昼飯をおごるぞと宣言。一生ついていきますとか手のひらを返した部下たちを引き連れていったはいいが、鰻屋や天麩羅屋。イタリアンやフレンチの名店の前を素通りして着いたのが、海鮮丼チェーンのどこにでもありそうなお店。しかも1人千円までと念を押す。鰻重の夢を見ていた部下の口から愚痴がこぼれるのはいつもの事だ。


ところが店の人に、ご飯が1人分しかないので15分お待ち頂きますと言われる。ここでみんなで待とうとか、ほかの店に行こうとか言わないのが富井副部長だ。腹を空かした部下達が水ばかり飲んでいる状況で、君たち悪いねえと言いながら、ひとりだけ美味そうに飯を食うのも富井副部長だ。そして自分は爪楊枝でも使っている頃合いに、部下の前に丼が出てきて、はたと気がつく富井副部長。俺のは残り物の飯で、あいつらは炊きたての飯を食っている。


これですっかり気分を害した富井副部長、社に戻っても何かにつけて、お前たちばかり炊きたての美味い飯を食いやがってと嫌みを言うので、これじゃ仕事にならないわ、山岡さんどうにかしてよってことになり、例によって岡星で実験が行われ、実は残り物の冷めた飯で作った海鮮丼の美味しいという、いかにも美味しんぼ的な意外な事実が判明する。炊きたての飯だと熱いので、刺身のタンパク質が変質するとか、そういう理屈が立てられるのだろう。


だがめでたしめでたしとなったところで、突然乱入してくるのが海原雄山である。なぜか帝都新聞社の人も一緒だ。栗田よう子から一部始終を聞いた雄山は例によって山岡の詰めの甘いところを直撃、みんなの前で恥をかかせる。こうして次週より究極VS至高の激闘海鮮丼対決へと雪崩れ込んでいくのであった、という話があるのかどうかは知らないが、炊きたての飯を食いそびれたなんてひがむのは、とても富井副部長的である事は間違いない。いつも笑い飛ばしているようなキャラそっくりになってしまうとはなんて事だ、と海鮮丼屋で海よりも深く、深海魚が泳いでいるあたりよりもさらに潜ったあたりで反省した。


人間、何事においてもそうだが、特に食い物に関しては寛容であらねばならない。さもないといつのまにか富井副部長や小泉局長や大原社主になってしまう。もちろん山岡のように理屈っぽいのもダメで、やはり理想は海原雄山の如く豪快にありたいと、言いたいところだが、この人も食い物に関しては容赦がないからなあ。


『人を呼んでおいて、こんなものを食わせるとは!!』