ゲド戦記の映画はなぜ第3巻なのか

ゲド戦記」は米国の女性作家アーシュラ・K・ル=グウィンが、大魔法使いゲドを主人公に68年から始めたシリーズ。岩波書店から全6巻が翻訳出版されている。映画は第3巻を基に、災いに覆われた世界を救おうとするゲドと、彼と共に旅する王子の成長を描く


言いたい事はいろいろあるのですが、ここではなぜ「第3巻」なのだろうかという事にポイントを絞って書いてみます。
最初この記事を読んだ時に「なんで3巻なんだ?1巻からじゃないのか」と疑問に思ったのですが、よく考えてみると第3巻以外は現状での映画化はとても困難だということがわかります
以下にゲド戦記、全六巻について映画化の可否についてコメントを書いてみました。

  1. 影との戦い―ゲド戦記 1。最初の話なので単独で映画化可能
  2. こわれた腕環―ゲド戦記 2。単独の長編としても読めるので映画化可能
  3. さいはての島へ―ゲド戦記 3。単独の長編としても読めるので映画化可能
  4. 帰還―ゲド戦記最後の書 (ゲド戦記 (最後の書))。1巻から3巻までの内容を踏まえた話なのでいきなりの映画化は無理。
  5. アースシーの風 ― ゲド戦記V。1巻から4巻までの内容を踏まえた話なのでいきなりの映画化は無理。
  6. ゲド戦記外伝。これは後で検討します。

こんなふうにまあちょっと考えただけでもまず1巻から3巻までしか映画化できないことはわかります。
そこでさらに1巻から3巻までについて映画化の可能性について掘り下げてみますとですね。
こわれた腕環―ゲド戦記 2」。これはエンターテイメントとしてはかなり厳しい。まず登場人物が少ない。アルハとゲドと婆さんの巫女数名、その他数名くらい。舞台も地下墓地に限定されるし、話の内容も暗いと、二代目宮崎ジブリ右衛門の襲名披露には向かない演目であります。
影との戦い―ゲド戦記 1」。魔法の才能に恵まれた少年が数々の体験を経て成長していく物語。魔法使いの師匠と弟子、ロークの魔法学校での学園生活。友情とライバル関係。高慢と誘惑と挫折。竜との戦い。アイデンティを脅かす黒い影。世界の果てへの航海と、どこを切ってもエンターテイメントの血が流れている作品です。
しかしこの作品を今、21世紀の時代に映画化するには重大すぎる問題があります。いや話の中身自体は問題はありません。しかしこの「影との戦い―ゲド戦記 1」が映画になった場合、僕のようなゲドの熱心な読者はともかく、ファンタジーの系譜というものに敬意を払わない一般観客はきっとこういう感想を抱くに違いありません。

「これってハリポタじゃん!」

ロード・オブ・ザ・リング」三部作が公開された頃、あちこちで「これってドラクエじゃん」という呟きが上がったそうですが、それと同じ事で、今時、魔法の才に恵まれた少年が魔法学校で学ぶという話は世の中から「ハリポタ」という烙印を押されてしまうのです。ゲドの方がずっと先だと叫んだところで無駄な事です。
これが某ネギマのように、ひっくり返っておへそ丸出しでやるならまだしも、スタジオジブリ作品として世の中に出す以上、「ハリポタじゃん」という烙印を押される事態だけは避けなければなりません。
というわけで消去法で考えるならゲド戦記の映画化は3巻以外にはありえないというところに落ち着きます。
ちなみに検討を後回しにした「ゲド戦記外伝」ですが、「カワウソ」「地の骨」「湿原で」あたりはまず映画向きではないし、「トンボ」、魔法使い志望の女の子が男装して女子禁制の魔法学院に入り込む話は、ハーマイオニ―・グレンジャー様の時代にはアナクロ過ぎます。「ダークローズとダイヤモンド」なんかは膨らませば結構面白いと思うのですが、やはり二代目宮崎監督の「ゲドをやりたい」という思いの前には、振り落とされてしまったのでしょうね。
しかしこうゲド戦記の映画化についていろいろ考えてみるとつくづく思うのですよ。ゲド戦記の映画化は二十世紀のうちに、ハリポタの前にやっておくべきだったと。

追記
でも真の理由はゲドを父駿に王子を自分に重ねて見ているという分かりやすいところのような。ネタバレだが王子は最後に載冠するんだもんな。