戦艦ポチョムキンの反乱

戦艦ポチョムキンの反乱 (講談社学術文庫)

戦艦ポチョムキンの反乱 (講談社学術文庫)


1905年6月,ロシア黒海艦隊に所属する戦艦ポチョムキン艦上において、乗組員の食事用の肉にウジ虫が湧いていたことをきっかけに反乱が発生。当時ロシアを席巻していた革命勢力の支配下に入ったポチョムキンオデッサ市民と連帯し、暴虐な弾圧を加える皇帝の軍隊と対峙する。
エイゼンシュタインの映画、「戦艦ポチョムキン」で有名な事件であるが、イギリスの史家、リチャード・ハフはこの事件をあくまで帝政ロシア末期のロシア人の反乱として描いている。
この事件が起きたのは日露戦争末期、日本海海戦によってバルチック艦隊が壊滅してから1ヶ月後のことである。この日露戦争で、帝政ロシアという国家は様々な欠点をさらけ出し敗北した。そして戦艦ポチョムキンもその乗組員も帝政ロシアに所属していたのであるから、革命思想に染まったからといって、当時のロシア国家が抱えていた欠陥と無縁になれるわけがなかった。
結局ポチョムキンの乗組員達は逡巡したあげくオデッサ市民を見殺しにしてしまい、オデッサの陸軍に対する艦砲射撃も1マイル先の建物に当てられない始末である。最後には戦艦ポチョムキン黒海を右往左往した後、ルーマニアのコンスタンツァに入港し、乗組員は当地に亡命。彼らの一部は恩赦の誘いにのってロシアに帰国後、処刑された。別の人々は英国経由でアルゼンチンに移住した。革命史的にはともかく客観的にはこの事件は竜頭蛇尾に終わったのである。
しかしそうなると一つ疑問が残る。
あのロシア人はどこから来たのだろう?
あのロシア人。後にロシア革命を起こし、鉄の国家を築き上げ、自国民を粛正の嵐に叩き込んだあのロシア人達である。
戦艦ポチョムキンの反乱はロシア革命の先駆の筈である。しかしオデッサに対する艦砲射撃を空砲三発、実弾二発で切り上げてしまった連中が鉄の意志を持った非情なロシア人の祖先ではありえないだろう。当時戦艦ポチョムキンスターリンが乗っていればどうなっただろうか?きっとオデッサ市が廃墟になるまで徹底的な無差別艦砲射撃を加え、敵にも味方にも革命勢力に対する強烈な畏怖を植え付けたに違いないのだ。
むしろ皇帝の軍隊、オデッサの反乱を容赦なく鎮圧し市民数千人を殺害した皇帝の軍隊の方がよほどレーニンスターリンに近い。
するとあのエイゼンシュタインの映画の階段の虐殺シーン、映画史の歴史にも残るあのシーンは革命の予告ではなく、全体主義国家ソビエトによる暴力的支配の予告ではなかったのか。