イーハトーボゆき軽便鉄道

イーハトーボゆき軽便鉄道 (白水uブックス)

イーハトーボゆき軽便鉄道 (白水uブックス)


ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)」がこの本について何を書くべきか途方にくれるくらい面白かったので、別役実の本をもう1冊買ってみた。
これも面白すぎる。宮沢賢治の童話を独自の解釈で語るというエッセイなのだが、その着眼点、論理の持って行き方、さらには言い回しが不遜な言い方かもしれないが他人とは思えないのだ。

そこまではいい。物語りは「それから六日目の晩でした」といきなりとんで、ゴーシュの成功した音楽会の夜になるのである。この空白の六日間というのが何であったのか、というのが私の疑問である。

空白の六日間の謎 「セロ弾きのゴーシュ

もちろんこの牛飼いの話して聞かせた相手が、自分が飼っている牛だとはどこにも書いていない。(中略)その口調から私は、彼の飼っている牛であろうと判断したのである。
このことは、かなり重要なことに違いない。


語られなかった事実 「オッペルと象」

その点について、この作品には一切記されていない。しかし私は知っている。ほとんど確実に、そのことを予想する事が出来る


後方の疑惑との闘い 「北守将軍と三人兄弟の医者」

別役実宮沢賢治の作品の欠落、書かれざる事柄を見付け、その欠落の存在を一見真面目な口調で報告し、その欠落に入るべき埋め草をでっちあげている。
こういう文章は先週あたりちょっと書いたばかりだ。

この短編、わずか二ページちょいの掌編である。よって伏線もクソもないのだが、でもよく読むとこの理不尽さの謎を解く鍵が見つからないこともない。

それにしても別役実はなぜ宮沢賢治作品のどうでもいいような些細な欠落を目ざとく見付けて、その欠落を針小棒大に、それこそ新書サイズで4頁くらいに拡大して、嬉々として語りたがるのだろう。
その点について、このエッセイ集には一切記されていない。しかし私は知っている。ほとんど確実に、そのことを予想する事が出来る。
現代ではもはやそこにしか語る自由がないからである。
現代においてはほとんどどんなことについてもすでに誰かが何かを語っている。この世界は語りで埋め尽くされている。よって新しく何かを語ろうとする場合、先行する語りに対する配慮、リスペクト、事前調査、その他もろもろの厄介な手続きが必要なのである。
そうした手続きなしに何かを語ってしまうとそれは無知、無能、怠惰、あるいは不作法な行為と見なされる。歴史をふまえていないとか、基本文献や過去ログやFAQ嫁とか、ぐぐれ、がいしゅつ、二番煎じ、世間知らずなどのありとあらゆる非難が浴びせかけられる。そうした手続きや非難から逃れて自由に語る事が出来る大きな処女地はもはやどこにも存在しない。
となると自由に語る事が出来るスペースをどこに求めるかというと、他人の語りの中にある些細な欠落という、小さなスペースに求めるしかないのだ。
誰かの語りに欠落がある。欠落があるということは、その欠落は誰かによって発見されなかった何かである。そしてそれが発見されなかった何かである以上、その何かは無主の地なのである。
かつて何もない大洋において小さな島という存在を発見することは国王に報告すべき一大イベントであった。それと同様、現代では全てが埋め尽くされたかに見える領域で些細な欠落という非存在を発見するのは全世界に報告すべき一大イベントなのだ。
である以上、その欠落に乗り込み、好き勝手な旗を立て、その欠落についての報告書をでっち上げるのは、それはもう発見者の特権なのである。