宗像教授異考録
- 作者: 星野之宣
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/08/01
- メディア: コミック
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- 作者: 諸星大二郎
- 出版社/メーカー: 創美社
- 発売日: 1988/07/08
- メディア: コミック
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前作、「宗像教授伝奇考」のラストでチンギスハン=源義経説の謎を追って大陸に渡った宗像教授が「COMIC Version NHKスペシャル 文明の道(2) クビライ 世界帝国の完成」*1を経て、遂に日本にご帰還。いま気がついたのだが、NHKの「クビライ 世界帝国の完成」に宗像教授が出てきたのは前作からの流れという必然性があったのか。さすが星野之宣。
ところでこの宗像教授シリーズ、諸星大二郎の稗田礼次郎シリーズへのオマージュ、リスペクト、パクリその他もろもろであることはよく知られている。*2考古学あるいは民俗学の学者が日本各地に伝わる神話や伝説の謎を解くという連作。黒ずくめという主人公の服装。名前からして諸星大二郎は稗田礼次郎=稗田阿礼とくれば星野之宣は宗像伝奇=南方熊楠とくる。そういうわけで、この二つのシリーズは一見同じような話に見えるし、並べて語られることが多いのだが、実は宗像教授シリーズと稗田礼次郎シリーズでは話の向かうベクトルが違う。完全に正反対だ。
宗像教授シリーズは、「宗像教授異考録 1」の帯にもあるように「神話や伝承に隠されたさらなる謎」を解き明かす物語である。田原藤太の百足退治、一つ目小僧の伝承、聖徳太子=キリスト説という神話がまず読者の前に提示される。そして田原藤太伝説は壬申の乱や源平合戦のイメージの投影であると説明され、一つ目小僧の伝承はタタラ吹きなどの金属に関わった人々の職業病のイメージが誇張されたものと説明される。聖徳太子の伝説には、聖徳太子がキリスト教の信者であったというメッセージが込められていると結論づけられる。宗像教授シリーズにおいては神話や伝説は隠された史実の投影である。
一方、稗田礼次郎シリーズでは、東北の謎の隠れ切支丹の村。高さ七丈七尺の大鳥居のある村に伝わる謎の祭。寂れた島に伝わる謎の海竜祭という現実が読者の目の前に提示される。そしてこれらの謎めいた現実は、アダムとは逆に知恵の実ではなく生命の実の食べた人々の子孫、常世から幸神を招き入れる祭、海に沈んで海竜と化した安徳天皇の鎮魂祭という隠された神話によって説明される。稗田礼次郎シリーズでは現実は隠された神話の投影である。
このように宗像教授シリーズでは話の流れは神話から現実へと進む。よって宗像教授シリーズにはオカルト的な要素はあまり出てこない。せいぜい夢オチ、幽霊オチ程度だ。*3
それに対し、稗田礼次郎シリーズでは現実から神話と話が進んでいく。そして現実から神話へ至るその先は異界である。よって稗田礼次郎シリーズでは必ず作中で異界への門が開かれてしまう。隠れ切支丹の村では「みんなぱらいそさいくだ」の名セリフとともに二千年分の死者が天高く光となって舞い上がり、七丈七尺の大鳥居をくぐって鬼神が来訪し、海竜祭の夜には安徳天皇が化した海竜が大津波とともに島に現れる。
実は宗像教授シリーズも第一作は異界への門を堂々と開けてしまう話であったりする。成田空港とおぼしき国際空港。その空港は度重なる地震に見舞われていた。実は空港建設にあたって転居させた村にあったストーンサクールのような遺跡は実は要石で、地底からやってくる何かを抑えていたのだ。そしてクライマックスでは地底からギリシャ神話の巨人、タイタン族が出現して空港を破壊するという今の宗像教授シリーズでは考えられないような話で、明らかに稗田礼次郎シリーズの展開を踏襲している。
ではその後の宗像教授シリーズがなぜ現実から神話へと向かい、異界への門を開ける方向に進まなかったのかというと、まず星野之宣的なやり方で異界への門を開けると日本が持たない(笑)*4主人公がどこか行くたびにギガント級のスペクタクルが巻き起こるのでは、たとえ月間連載だろうが一、二年もしないうちに日本が破壊しつくされてしまう。*5
もっともそれ以前に星野之宣と諸星大二郎の資質の違いがあるだろう。星野之宣は本来、SF、サイエンス・フィクション畑の人だ。SFとは多少荒唐無稽だろうが、サイエンスという現実が生み出すフィクションの物語だ。一方諸星大二郎はというと最初のコマの最初の描線からして、どうみてもフィクション、この世界ではない異界を描くお方である。この二人の資質からしても、宗像教授シリーズでは神話は現実の投影であり、稗田礼次郎シリーズでは現実は神話の投影となるのは至極当然と言えよう。
ところでみなさんは「神話は現実の投影である」という考え方と「現実は神話の投影である」という考え方のどちらに惹かれるだろうか?恐らくバブル期前までは「神話は現実の投影である」という考えに惹かれる、というよりはそれが至極当たり前と考えられていただろう。ところがバブル期を境に「現実は神話の投影である」という考え方に惹かれる人々が多くなったのではないだろうか。こう考えるとオウムを始祖とする諸々の現象に説明がつくのではないかと思う。「願った事は必ず実現する」というポジティブシンキング系の考え方も「現実は神話の投影である」の範疇に入るだろう。
ちなみに僕はというと、星野之宣の本の紹介にも関わらず延々と諸星大二郎ネタ*6を連ねるところからわかるように、「現実は神話の投影である」という考えに惹かれる人間である。もっともその一方で「郵政改革は明るい未来を開く」式のたわけた神話を信じる気にはまったくなれないのだが。小泉総理なんぞ日本をどういう異界に連れて行くのかわかったもんじゃない。