フリーの市民記者って何さ?


下卑た言い方かもしれないが、今、六本木で行われている編集活動は、透明性もなく、編集指針もなく、運営者個人の独裁体制によって行われている。

組織と個人の対立。世間ではよくある出来事である。
大抵の場合、相対的強者である組織が譲る事はない。選択を迫られるのは個人である。道は二つ。組織の隷属の身に甘んずる。あるいは組織の拘束を解き放って独立する。
真に気概のある者ならば、選ぶべきは独立である。Freeになるのだ。
世の中にはこんな道を辿ってフリーになるものが五万と居る。フリーのジャーナリスト、フリーの編集者、フリーライター、フリーの漫画家、フリーのプログラマ、etc。
もしスポンタ中村氏が独立の道を選ぶなら、このフリーの天空に新たな星辰を加える事になるだろう。
フリーの市民記者。恐らく日本初である。
ところでフリーの市民記者って何さ?
いや、それ以前にフリーじゃない市民記者って何さ?







かつて平塚らいてうは、女性による女性のための初めての文芸誌「青鞜」の発刊に際してこう書いた。

元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

偖(さ)てこゝに「青鞜(せいたふ)」は初声(うぶごゑ)を上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。

「女性」を「PJ」、「青鞜」を「ライブドアPJ」に置き換えれば、そのままライブドアPJ発刊の辞にも使える。男性支配からの脱却を目指した青鞜。既存マスメディアの支配打破を目指すライブドアPJ。志は同じであろう。
しかし今の我々に「青鞜」は必要だろうか?
元始、女性には出版の手立てがなかった。自らの声を多くの人々に届けてもらうための手段がなかった。ゆえに青鞜という文芸誌、女性のための出版手段が必要であった。
しかし今の我々は違う。大正時代の女性と違い、ネット時代の我々はWebという自らの出版手段を持っている。ネットの登場によって、かつて一部の人々のみが享受していた出版の手段、出版の自由を我々も手にした。これが趨勢というものである。
ところがこの趨勢に逆らい、出版の自由を他人に委ねる人々が現れた。ライブドアのPJである。
彼らは記事を書く。彼らは自分のBlog、自分のサイトを持っている。ならば自分の記事は自分のサイトに書けばよい筈だ。ところが彼らは記事をライブドアPJの編集部に寄託し、ライブドアPJのニュースとして取り上げてもらおうとする。
なぜか?
その理由は図らずしも本日付けのライブドアPJの記事が明らかにしている。

何よりオーマイニュースになくて、ライブドアにあるものはポータルとしてのアクセス数。こればかりは、一日にして成るものではない。これはオーマイニュースを模倣したJanJanが欲しくてもなかなか得られないものだ。そして、PJたちはこの今まで体験したことのないアクセス数による反響に戸惑いながらも、緊張感を持って記事を書き続け、慣れていくしかないのだ。

彼らは「自らの出版の自由」と引き替えに「ポータルとしてのアクセス数」を得ているのだ。
この事自体を非難するつもりは全くない。持てる者と持たざる者の取引。世間ではよくある出来事である。
だが市民ジャーナリズムは市民という記者が主役になるはずのもの、市民が太陽になるための手段であるべきであろう。
ところがライブドアPJにおいては、市民記者ではなく編集部が事実上の主役となってしまっているらしい。
市民が主役になるはずの手段が、手段へのアクセス権を占有する者の意のままになり、その他大勢は隷属するより他はない。これも世間ではよくある出来事である。
しかしこれが市民ジャーナリズム、情報を広く広める手段を占有してきたマスメディアに対する反逆の狼煙を上げたところで起きている。
これは皮肉である。罠でもある。
罠から逃れるにはフリーになるしかない。PJを辞めてフリーの市民記者になるのだ。
でも我々Bloggerは本来誰しもが潜在的には自らの出版手段を有するフリーの市民記者ではなかったのか?
そしてPJという市民記者はFreeではないのだろうか?



元始、Bloggerは実に太陽であつた。真正の人であつた。今、PJは月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
このことを僕は悲しむのである。
もちろん文飾の上の話である。