幼少の砌の日記の思い出

世の中には学級日記なるものがある。学校での出来事、家族のこと、先生に言いたい事を日記に書いて提出し、先生にコメントをつけて返してもらうというやつである。僕も小学生のころやらされていた。
ある日、僕はある学校行事のことを書いた。何の行事だったかは忘れた。学校の行事というのは建前としては生徒が主体的に取り組むものであるということが強調される。しかし実際には学校側によって強制的に参加させられる代物でしかない。矛盾した状況である。*1
僕は日記にそうした矛盾に対する違和感を正直に書いて先生に提出した。翌日、僕は先生に呼び出され、おまえは強制されるのが嫌なのかと叱責された。思い返してみるに当時の担任は生徒に対する指導力に欠けた人で、欠けた部分を厳しい言動とエキセントリックな感情の発露で補っていた。そのため他の先生のようにそうした矛盾を悪く言えば柔らかく誤魔化すことができなかったのだろう。ある意味正直な人ではある。しかし受け持たれた生徒としては災難でしかない。
それ以来僕は学級日誌にはあたりさわりのないことしか書かなくなった。
よくある出来事、素直な子供の小さな挫折である。
総務省が打ち出した小中学生総Blogger化計画なるものが巷間を騒がせている。「IT社会で日本が優位に立つには、義務教育段階からネットワークで個人が発言する作法を身につけさせることが必要だと主張」に基づくもので学校単位、学級単位の閉じたネットワーク内でBlogをPublishするものらしい。だがどうだろうか。この学校単位、あるいは学級単位の閉じたネットワーク内でBlogを書くことによってIT社会で日本が優位に立つために必要な作法、つまりはネットリテラシーが習得されるだろうか?僕はかなり悲観的に見ている。というのは学校でBlogを書く子供の前にはとても大きな障害が立ちはだかっているからだ。それは学校そのものである。
学校、あるいは学級というのは先生と生徒の権力関係、あるいは生徒同士の力関係による相互作用が非常に狭い空間に充満している場である。そのような場においてBloggerとしてやっていくには確かに作法は必要になる。しかしその作法は学校という閉じた場にふさわしい物にしかになりえない。閉じた小さな世界で巻き起こる力の渦をなんとかやり過ごして行くための作法である。それは一般的にネットワーカーがネットリテラシーという言葉から連想するイメージとは正反対のもの、梅田望夫氏がコラム「「勉強能力」と「村の中での対人能力」」で提起した「村の中での対人能力」に近いものでしかありえないだろう。
学校あるいは学級という器はBloggerがBlogを書くには狭すぎる。人口密度が大きすぎる。となりのBloggerが物理的にも心理的にも近くに居すぎる。つまるところ日本の学校という空間自体が個人が発言する作法を身につけさせる場としては不適当なのだ。そもそも学校自体が生徒という個人が自分の意見を躊躇なく発言することを奨励していないではないか。
ではどうすればよいか。迂遠なようだが学校の外で自分のやり方で発言する作法を身につけていくしかないと思う。そもそも小中学生の時点からBlogを書かかせないと世界に取り残されるというのが短絡した発想である。Blogを書くのは大人であれば何歳から始めったてよいのだ。20才でも40才でも50才*2でも遅くはない。中身が大人であれば年齢が14才でもかまいはしない。学校がやるべきは子供にBlogを書かせることではなく、個人として自分の意見を発言できる大人を育てることである。そこをショートカットしてBlogを書かせたところでうまくいきはしない。屈折した大人を量産するだけに終わるだろう。
日本的なBloggerのありようとしては正しいのかもしれないけど。

*1:そもそも学校自体が建前としての主体性と本音としての強制の間の矛盾した存在である 「<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)

*2:「ブログ」入門―50代にもよくわかる (ベスト新書)