ウォルフガング・ロッツについて

スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)

スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)

文学界の6月号に掲載されたインタビュー記事、私の読書遍歴の中で「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」の著者、佐藤優氏は「スパイ小説は読みますか」との問いに答えて、ル・カレ、グレアム・グリーンの大御所の名をあげた後、1960年代に活躍したイスラエルのスパイ、ウォルフガング・ロッツ(1921-1993)の著書、「スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)」を紹介している。
佐藤氏は自身の弁護を担当した弁護団にも特殊情報活動を理解するための必読書として「スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)」を勧めており、同書および著者のウォルフガング・ロッツへの思い入れはかなり深いようだ。

ウォルフガング・ロッツ(Wolfgang Lotz)はドイツ系のユダヤ人で1921年、ベルリンに生まれた。母親がユダヤ人で両親ともに演劇関係者である。この生まれと育ちが彼のスパイとしての資質に大きく寄与したのは間違いないだろう。ロッツが10歳の時、両親は離婚、1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツの政権を掌握した年に彼は母親とともにパレスチナユダヤ居留地に移り住む。第二次大戦中は英軍に従軍、捕虜収容所でドイツ兵の尋問にあたった。この時の経験が後の諜報活動に大きく生かされることになる。
第二次大戦後、ロッツはイスラエル国防軍に入隊、2度の中東戦争を経た後の1959年にイスラエル諜報部にリクルートされる。数年間の厳しい訓練の後、1961年、ロッツはエジプトに派遣された。
当時、エジプトは長く英国の支配下にあった反動から親独的傾向が強まり、首都カイロにはドイツ人ビジネスマンのコミュニティが形成されていた。また隣国イスラエルを打倒すべく軍備増強に勤しみ、その一環としてドイツ人技術者を登用してロケットの開発を進めていた。ロッツはそのドイツ人コミュニティに旧ドイツ軍人の金満家として登場し、豪勢な振る舞いによりたちまちカイロの上流社会の名士となり、エジプトの政府および軍の高官の中に多くの友人を作った。
この金満的な振る舞いはイスラエル諜報部の一部で顰蹙を買い、彼には「シャンペン・スパイ」というあだ名が付けたが、このあだ名は彼にとっては勲章であり、後に自著のタイトルに用いている。ロッツは交友関係を通して築き上げたネットワークを活用してエジプト軍の貴重な情報を入手し本国に送り続けた。彼の諜報活動はエジプトのロケット開発活動の妨害および後の第3次中東戦争におけるイスラエルの勝利に大きく貢献したと言われる。
しかしロッツは1965年、KGBの支援を受けたエジプト公安部に逮捕され、見せ物じみた裁判の末、終身刑の判決を受ける。だが1967年、エジプトとイスラエルの秘密交渉によって、彼は5000人のエジプト兵捕虜と引き替えに釈放されたのである。その後ロッツは自身の体験に基づき回想録「シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))」を執筆、これは13カ国語に翻訳されるベストセラーとなった。
シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))」も「スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)」も読みものとしては大変面白い本だが信憑性にはかなり問題があり、多くの嘘が混じっている。彼がついた最大の嘘はとてもロマンチックな物語である。
1960年、ロッツはミュンヘンでドイツ系アメリカ人のブロンド美女と出会い宿命的な恋に落ちる。だが彼の恋路には二つの障害があった。諜報部員という彼の素性、および諜報部員の任務中の恋愛を厳しく戒めるイスラエル諜報部の掟である。ロッツは苦悩の末、彼女に自分の正体を告白し結婚を申し込んだ。彼女の答えはイエスであった。そしてロッツは新妻を強引にカイロに連れて行き、諜報部の上司には事後追認という形で彼の結婚を認めさせた。この女性、ウォルトロード・ノイマンは社交上のパートナーとしても諜報活動の助手としても大いにロッツを助けることになる。
このエピソードはロッツの回想録の白眉といえる場面で、「シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))」、「スパイのためのハンドブック (ハヤカワ文庫 NF 79)」、さらには落合信彦の「モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関 (集英社文庫)」にも繰り返し出てくる。だが残念なことにこの美しい話は嘘である。実はロッツにはイスラエルに残した妻がいたのだ。
当時のイスラエルは海外に派遣する情報部員および外交官は既婚者に限るという方針を立てていた。独身者は赴任先で敵方によって仕掛けられる、俗に「甘い生活」と呼ばれるタイプの謀略に屈する恐れがあったからである。ロッツと同時期にシリアに潜入したモサドの情報部員、エリ・コーエンは妻をイスラエルに残して赴任している。ロッツもこの方針の例外ではありえなかった。
ロッツとウォルトロードの結婚は彼のドイツ人金満家という偽装を整えるために必要な最後のパーツであった。ウォルトロードの正体については「モーゼの密使たち―イスラエル諜報機関の全貌」はドイツ連邦情報部、通称ゲーレン機関の要員であったいう説を紹介している。当時イスラエル情報部と西ドイツの情報部は緊密な協力関係にあり、西ドイツの情報部はドイツを経由してアラブ世界に潜入するイスラエル情報部員の身分の偽装に手を貸していた。ロッツとウォルトロードの結婚もそうした協力活動の一部であった可能性は高い。
さらに疑わしいことにウォルフガング・ロッツはロッツは大した情報部員ではなかったという説も存在する。先に第3次中東戦争におけるイスラエルの勝利に大きく貢献したと書いたが、これはかなり誇張が過ぎるらしい。またエジプトが1961年に実施したミサイル実験の察知に失敗したためにロッツは譴責されている。5000人の捕虜と交換されたという話は彼の有能さと重要さを示す尺度として紹介されることが多いが、ロッツが釈放された翌年、イスラエルは数千人の捕虜と交換に四人のイスラエルのスパイを引き取っている。この四人は「ラヴォン事件」の名で知られる杜撰な失敗によりエジプト当局に捕らえられたもので、全員スパイとしては素人も同然であった。人口300万のイスラエルにとって千人単位の捕虜は存在自体が大きな負担である。ロッツはモサドの花形スパイとして言及されることが多いが、彼はエジプトにおいてドイツ人金満家の役を演じたのと同様、引退後は元花形スパイというの役を演じてきただけかもしれない。
しかしロッツが活躍した時代、イスラエルの情報部が輝ける存在であったことは間違いない。だが第3次中東戦争後、イスラエルの情報部は堕落、腐敗、迷走の一途をたどる。第3次中東戦争後の圧倒的な勝利は奢りを倦み、ミュンヘン・オリンピックのイスラエル選手団襲撃事件はイスラエルの情報部を対テロのための暗殺と謀略のための存在へと変質させた。そしてパレツチナ占領地においてはイスラエル情報部は暴力的統治のための手段に成り下がった。
このためイスラエル情報部は本来の目的である諜報および防諜の機能を弱体化させ第4次中東戦争においてはアラブ側の奇襲を受ける。その後もラビン首相の暗殺を許し、インティファーダ以来続く暴力の連鎖に終止符を打てずにいる。
1980年、ジャーナリストの落合信彦は、モサド関係者についての一連のインタビューを成功させ、その成果を「モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関 (集英社文庫)」にまとめ上げた。彼の出世作となったこの著書の中で、落合信彦モサドを「世界最強の諜報機関」と賞賛している。だが彼が取材した当時のモサドはかつての輝けるダビテの星の形骸に過ぎなかった。彼のモサド取材から2年後の1982年、イスラエルレバノン国内のPLO制圧を目的とする侵攻作戦、ガラリア平和作戦を実施した。このレバノン侵攻は惨めな失敗に終わり、後に「イスラエルベトナム戦争」と呼ばれることとなった。



参考資料


シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))

シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))



モーゼの密使たち―イスラエル諜報機関の全貌

モーゼの密使たち―イスラエル諜報機関の全貌


憂国のスパイ―イスラエル諜報機関モサド

憂国のスパイ―イスラエル諜報機関モサド

Wolfgang Lotz
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/Lotz.html