ビールと緑茶とロジーナ茶会

ネットを観ていると「自分には発泡酒で十分」と書いている人は意外に多い。そう書いている文章をよくよく読み込んでいくと「自分にはビールの味が分からないし」という自己規定があるようだ。

私思うに、そういう人は、きちんと味覚や嗅覚、口腔内粘膜の触覚などを使って味わっていない。「まあこんなもんだろう」という味覚の先入観というかフォーミュラというか、そんなものが脳内に出来ていて、味覚の刺激入力に対して、その先入観が発動してしまっている。先入観が味覚を始めとした入力をブロックしてしまい、代わりにあらかじめ生成されている「まあこんなもんだろう」という刺激が脳内を駆けめぐっているのだ。

過去に例をみない,緑茶の大型商品の発売ラッシュに,消費者は少々戸惑い気味かもしれない。何しろ,3〜4月は毎週のように緑茶の新発売やリニューアルが続いている。IT Proの読者は,何種類の緑茶をご存じだろうか。



今、私が懸念しているのは、多様性ではなくて、商業主義の圧力によって「作られている多様性」。たくさんの差異を生み出すことができれば、多様な商品を売り込むことができる。差異を生み出すこと自体が目的となって多様な商品が投入される。そうした現在の商業主義の圧力の中で、人々が本来的に持っていた本性・個性が歪められているように思う。「貴方は誰?」という問いかけではなく、「貴方は誰になりたい?」と問い掛けられているように思う。そうした「作られた多様性」のなかで、人々の認識をつなぐインターフェイスが存在しなくなったとき、対話が成立しなくなる。対話が成立しないとき民主主義は死ぬ。