オレ様大衆社会の到来?

「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」

内田師はどうして、「学びから降りる」ことが自己満足や自己肯定に結びつくのか、その理路はわかりにくいはお書きになっているが、あえてやってみる。

同じく内田樹の研究室より

すべての頁に私は「おおお」と赤鉛筆で線をひいてしまったが、いちばんたいせつと思われる箇所を最後にひとつだけ引用しておく。

「私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで『情報メディア』から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全にまきこまれている。子どもたちが早くから『自立』(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルに入り込み、『消費主体』としての確信をもつからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が『近代』を教えようとして『生活主体』や『労働主体』としての自立を説くまえに、すでに子どもたちは立派な『消費主体』としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校に入って、教育の『客体』にされることは、子どもたちにとっては、まったく不本意なことであろう。」(222頁)

内田氏は「学びから降りる」と書かれているがこれは逆であろう。すでに消費者としての『主体』を確立している子どもたちにとって、学びの道に入るということは『主体』から『客体』への転落に他にならない。今の子どもたちにとって「学ぶ」ことこそが「降りる」ことなのではないか?
引用文中に「さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である」とあるが僕はそのようなメカニズムは存在しないと思う。これも逆で、今の子どもたちというか人間一般はデフォルトで「自己満足や自己肯定」の状態にあり、学ぶことによってそのような「自己満足や自己肯定」状態が解消されるのである。
つまり「学びから降りる」から「自己満足や自己肯定」状態に陥るのではなく、「学ばない」からこそ「自己満足や自己肯定」状態に取り残されるのである。

そういうわけで近い将来到来するらしい「大衆社会」とはオレ様した子供達がそのまま社会の構成員として持ち上がっていった末に出来る「オレ様大衆社会」になるのではないか。