批評理論入門

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を題材にして、伝統的批評から始まり、脱構築精神分析フェミニズムジェンダーマルクス主義ポストコロニアルなどの様々の批評理論の実践例を小論文の形で例示している。
前書きによると、読者が印象や直感のみに頼って作品を解釈するのは狭くて貧しいやりかたであり、故に批評理論による方法で狭い先入観を打破して読みの可能性を広げる必要性があるらしい。
しかし著者のこの主張は説得力がないと思う。
というのは本書で例示している批評理論の実践例が恣意的に見えるからだ。
例えば「フランケンシュタインの怪物」というのは批評理論によると、フランケンシュタインの悪しき自我であり、なおかつ家父長制を破壊する女性の表象であり、資本家を打倒する労働者の表象であり、帝国主義的侵犯を挫折させる植民地の表象であるということになる。
批評というのはなんかのテンプレがあってそれにテクストを適当に突っ込めばOKなのだろうか。
またフラケンシュタイン博士は友人クラヴァルに呼びかける時には「最愛の友人クラヴァル」と最上級の呼び方をするのに対し、婚約者エリザベスに対しては「愛しい愛しいエリザベス」と一段下がった呼び方をしている。それゆえゲイ批評の立場からはフラケンシュタインとクラヴァルはそういう関係にあると解釈される。
とにかく批評理論においては作者が書いた事は現在、過去、未来のありとあらゆるものに結びつけられる。また作者が書かなかったことすら、それを書かなかった故に抑圧や忌諱があったのではないかと詮索されてしまう。
単独の書評であれば、ある程度の形式性や恣意性は許容されるかもしれない。しかし本書のように書評展覧会になってしまうと書評の形式性や恣意性は致命的な欠点になる。書評の型にはまっている部分は書評理論の特徴として強調されてしまう。またやや強引かと思われるテキストの解釈が続くと、テキストの解釈がやりたい放題に見えてくる。
まず先に批評理論があって、そこから批評を引き出してみせるという本書のやり方は批評理論の有効性を示すには逆効果ではないか。