義経

新装版 義経 (上) (文春文庫)

新装版 義経 (上) (文春文庫)


最近書店でよく見かける。来年の大河ドラマネタであるからだろう。
でもこの小説を読んで義経萌えになるかというとそうはならない。
僕のみるところ司馬遼太郎という人は人物に序列をつけて、それを小説中に露骨に反映させるところがある。
今年の大河ドラマネタの燃えよ剣(上) (新潮文庫)だと一番上に来るのは土方歳三で、その次は沖田総司近藤勇は大分下がる。
また一連の幕末ものだと、大久保利通が一番上に来て、その次が大村益次郎坂本龍馬だろうか。西郷隆盛は少し下がる。
これは作者の歴史観に属する事柄ではある。ところがその一方、小説というのはそれ自体登場人物のあるべき序列というのがあって、もちろん主人公が一番上に来るのが望ましい。
司馬遼太郎歴史観による序列と小説の構成上望ましい序列が一致するなら問題はない。燃えよ剣(上) (新潮文庫)新装版 竜馬がゆく (1) (文春文庫)はこの二つが一致した典型である。
ところがこの二つが一致しない場合、司馬遼太郎歴史観による序列を優先させてしまうのだ。
例えば歳月 (講談社文庫)江藤新平が主人公の小説だが、幕末から維新後の話だから当然大久保が出てくる。そして司馬遼太郎的には江藤は大久保より一等下の人間であるから、江藤は大久保には及ばない存在として描かれている。そのため大久保が出てくる場面は概ね大久保が主役になってしまう。
このあたりは司馬遼太郎でよく言われる鳥瞰的視点というやつが絡んでいるのではないかと思う。司馬にとって人物は山なのである。歳月 (講談社文庫)でいえば江藤という人はそれなりに高い山なので、視野の中に江藤より高い山がない場合は物語は江藤の視点から語られる。ところが視野に江藤より高い山、つまり大久保が入ってくると物語はより高いところ、大久保の視点から語られることになるのだ。江藤から大久保を見る場合、それは見上げる視点でしかない。しかも自分が見上げていることに江藤は気がつかないというのが歳月 (講談社文庫)の綾なのだが。
覇王の家(上) (新潮文庫)、これは徳川家康が主人公の小説だがつまらなさでは司馬作品のトップクラスである。というのは司馬的には信長、秀吉>>家康なので、家康はこの二人にいいように転がされてしまうのだ。
前置きが長くなったが、義経歴史観による序列と小説の構成上の序列が一致しない小説で、司馬遼太郎的には、1に源頼朝、2に後白河法皇で、義経の序列は大分下がる。敵方の平知盛より下なんじゃないかとすら思われる。
そのため覇王の家(上) (新潮文庫)同様、義経は頼朝と後白河法皇にいいように転がされる存在に成りはててしまう。これではとても主役とはいえない。
恐らくこの小説の真の主役は源頼朝だろう。というのは普通の義経ものとは違い、義経都落ちしたところで事実上終わっている。そこから衣川の戦いを経て終結するまでわずか1頁ほどである。
司馬遼太郎にとっては真の主役頼朝の眼前からフェードアウトしたところで義経の物語は終わりということなのだろう。

追記

覇王の家(上) (新潮文庫)新装版 義経 (上) (文春文庫)も歴史随筆としては面白いかもしれないがやっぱ小説ではないわ。