blogに編集長は必要か?

まとめようとしてまとまらないネタ。
ただでさえ回らない頭がドルマゲスのせいで寝不足状態なのである。
とりあえずダラダラと書き出してみよう。

発端はこの辺からである。

○ 参加型ジャーナリズムの定義

(中略)

A 独立した個人である
 B その個人が、見聞きした情報を公開したり、公開された事実に対して自らの責任において論評したりし、発表を行う
 C 独立した個人同士がそこで掲載された情報や論評に対して評価を行う
 D 行われた評価をもとに、さらに社会的、経済的、政治的、文化的、技術的などの見地から発展された議論を行う
 E 行われた議論は問題ごとに収斂した形で整理され、インターネット上に知識として集積される

とりあえずこれを参加型ジャーナリズムの定義としておく。
その一方で切込隊長氏は参加型ジャーナリズムに不足するものとして「専門性」と「モデレーター」の二点を上げられておられる。
専門性というのは、文字通り専門的な知識、技術、経験のことで意味するところは明解である。一方モデレーターは少し説明を要する。

もう少し踏み込んだ議論をすると、やはり議論を収斂し、結論を出す、あるいはどこに争点、論点があるかを整理するモデレーターのようなものが確実に不足しているように思う。時事的な議論は、単独で存在しているわけではなく、必ず問題の原因があり、それが徐々に症状を起こしていって輻輳し、最終的に社会的な問題として新聞沙汰になるわけである。新聞沙汰になってからネットがあれこれ騒いだところで、それは参加型ジャーナリズムが発展して社会的に貢献していることにはならない。単に夕刊フジを読んで社会に憤りを感じる団塊のオヤジどもと何ら知的な差異は感じ取れない。

 ゆえに、その「何が問題であるか」「問題がどうであるか」を議論の中から炙り出して指摘するモデレーターがいない限り、参加型ジャーナリズムのようなものは完成せんのではないかと思うのだ。それは、いくら技術が発展してどうというものではなく、いまある技術でもそれを利用し活用するネットユーザーの側がどう機能を果たすのかというところが問われているのだろうと思う。しかも、議論の過程は退屈なので、問題のないときは物好きがコツコツと話題を集め論考するというヲタ以外無理としかいいようのない作業を続けることになるのだろうと思うが、そういう専門家とモデレーターというふたつの機能を完備しない限り、インターネットが自律的な報道システムのようなものを内在できるとも思いづらい。

このエントリは11月26日に投稿されたものだが、奇しくもその前日「新聞に「論壇時評」があるようにブログの世界を批評するつもりです」というBlogがスタートした。そうブログ時評である。すいませんねえ。今日はあまりいじめないから。
団藤氏はブログ時評を始めるに先立ち、メルマガ、インターネットで読み解く!のNo.150「ネットと既成とジャーナリズム横断」で以下のようなことを書いておられる。

最近、ブログに巡回時間を掛けている私の見るところ、ブログの多くは例の巨大掲示板2ちゃんねる」でされている議論のレベルを出ていない。議論を議論として成立させるには言葉の概念を整理しなければならないのに言いっぱなし、すれ違いが多く、議論が噛み合わない場面が続出している。推敲されていないことが歴然の書き込みも多々である。

現在、ブログの世界は急膨張しすぎて、面白い議論であっても当事者周辺にしか分からない。「ネットと既成とジャーナリズム横断企画」では、まず「第三者が読むに値する議論」をブログから掘り起こして多くの人の目に留める。津波アクセスと言えるほど大きなアクセスが自律的に作り出せ、ネットの世界自らがマスコミになり得ることを知れば、多くの人に読んでもらうために書き手が精進して議論の質が高まる良循環に導けよう。

これは切込隊長氏のモデレーターに相応するものである。まさに切込隊長氏が不在と嘆いたモデレーターが誕生しようとしていたのである。周知のように後にこのお二方は激突してカチカチ山になってしまったのであるが、これは不幸と言えば不幸であるし、必然といえば必然であったのかもしれない。
ところでブログ時評であるが、火だるまの件とは別に一部の方を失望させたようだ。

ブログ時評は、時事の話題に関して、検索エンジンなどを使って参考になる意見をまとめてくれるのかと思って期待していたんですが、お題を出してご意見はTrackBackで通知してください、というもの。え、ネットを新聞の投書欄と同じだと思っているのか!と思って脱力感を味わってしまいました。

脱力感ですめばいいのだが、僕はブログ時評が抱える問題は根深いと思う。
以下の文章ははブログ界隈の時事ネタ(木村剛&団藤さんとか)にインスパイアされたと書いておく。実は、僕も11月25日の時点で同じようなことを考えていたのだが、表現が辛辣になりすぎて自主検閲したのである。
さて、ブログ時評の抱える問題というのはこういうことである。
ブログ時評においてはブログオーナーの団藤氏と他のブロガーの関係は対等ではないのだ。
ぶっちゃけた話、団藤氏が編集長で他のブロガーはライターなのである。
実際団藤氏は「学力低下」論じた方はTBを!!→ブログ時評に載せますのエントリで以下のように書いておられる。

なお、ブログ時評はメールマガジン「インターネットで読み解く!」に載るほか、様々なサイトの皆さんの協力などもあって、数日間で数万人の目に留まる仕組みになっています。
つまり

  1. ブログ時評に取り上げられる
  2. 数万人に読まれる
  3. みんなに読まれてウマー

という構図である
しかしこれでは

  1. 紙媒体の雑誌に記事が載る
  2. 数万人に読まれる
  3. みんなに読まれてウマー

という既存のメディアとまったく変わりがないではないか。
マスメディアに対するネットワーカーの意識というのは、「今まではマスコミの連中だけがみんなにネタを読ませる手段を独占していたが、これからはそうはいかないぜ、へへん。(このへへんが重要)」というものあろう。
ネットでは誰かに頼らなくても自分の意見を読ませることができるのだ。建前だし理想論だがこれが大前提である。
その世界で「自分には大勢の人間にあなたの意見を読ませることが出来る」と主張するのはアナクロである。やはり団藤氏はネットが全くわかっていないと断定せざるを得ない。
とはいえ団藤氏が数万という読者を握っているのもまた現実である。
で、話が前に戻るが、切込隊長氏のモデレーターというのも団藤氏のような編集長になってしまうのではないか?
モデレーターのような立場が確立されたら、モデレーターは他のBloggerに対して優位に立つことになる。モデレーターのBlogに採用されるか否か、あるいは採用されたとして、その取り上げ方が各Blogの浮沈を握ることになる。
早い話、モデレーターというのは評論家、「俺様が取り上げることに意義がある」みたいな人種になりかねないのである。
ちなみに評論家というのは、ラーメン評論家とかあの辺の評論家を見ればわかるようにオタクじゃないとつとまらん商売である。まさに「物好きがコツコツと話題を集め論考するというヲタ以外無理としかいいようのない作業」を日常としているのだ。
したがって参加型ジャーナリズムはプチ権力者と化したオタBlog評論家がパンピーBloggerを傲慢に支配する世界になる危険を孕んでいる、という結論でいいんだよな。ちょっと心配になってきた。
実際、ラーメンマニアがラーメン屋の浮沈を握るという話は「ラーメン発見伝」に載っていたし、それのBlog版がおきるんだと主張すれば説得力があるだろう。
そんでもって、そういうプチ権力者の登場は参加型ジャーナリズムの前提「A 独立した個人である」という前提を脅かしかねないと。
まあ眠い頭で思いつくのはこのくらいか。