アマチュア革命がもたらす世界

むろん、プロ、プロアマを問わず膨大な数の専門家の中で、常に実力で皆に認められ続けることで尊敬を勝ち得て、しかもそれに報酬もついてくるならば、言うことなしだ。ただ、それは図抜けた才能を持つほんの一握りの人にしかできない。大半の無名の才能は「イノベーションへの貢献」のために消費されていく。また仮に図抜けた才能があっても、選んだ分野が、「報酬を得る」ということと無縁の知的活動分野なのであれば(これがひょっとして増えていくのではないかという予感もある)、そもそもはじめから、その知的活動が無償の行為であることを覚悟して生きなければならない。

この「アマチュア革命」という現象の意味を突き詰めていくと、「知的で面白いことをできる限り一生やり続けて、しかもちゃんと飯を食っていく」というプロフェッショナル的人生の新しいあり方を、意識的に模索しなければならない時代がやってきた、ということではないかと思う。

まだ僕にも、この難問に対する答えはない。

すでに答えは書かれちゃってますが

それでも、この有名人経済は一部の人にはつらいものだった――特に、ぼくたちみたいに学者的な性向をもった人には。一世紀前には、純粋な学者として生計をたてるのは十分可能だった。ぼくみたいな人間は大学教授としてそこそこの給料を稼ぎ、それを教科書の印税で補うえたはずだ。でも今日では、教師の職はなかなかないし、あってもどうせ雀の涙ほどの払いでしかない。それに、本を売って儲ける人間なんかだれもいない。
もし学者稼業に専念したいなら、いまではもう選択肢は 3 つしかない(機関化された学術研究の確立する以前の19世紀に存在したのと同じ選択肢だ)。チャールズ・ダーウィンのように、金持ちの家に生まれついて、遺産で喰っていくか、あるいは進化論の共同発見者でちょっと運の悪かったアルフレッド・ウォレスのように、別の仕事で糊口をしのぎ、純粋研究は趣味にするか。あるいは多くの 19 世紀科学者のように、講演巡業をすることで、学者としての名声をタネに稼ぐかだ。

これはPaul KrugmanがThe New York Times Magazineに1996年の9月29日に寄稿したものです。

このとき与えられた指示というのは、これがいまからさらに100年後の記念号用の文だと思って、それまでの過去1世紀をふりかえって書いてくれ、というものだった。