眠れない夜の話

昨夜は風の音がうるさすぎて眠れそうもないので、台風情報の聴取を兼ねてTVを付けっぱなしにして寝た。もちろんNHKである。どうも3時くらいまでは起きていたらしい。
TVをつけた時にやっていたのは子供の教育問題の特集番組だ。あとで調べたところNHKスペシャル 子どもが見えないであった。コメンテーターとして重松清も出ていたようだ。半分眠りながら聴いてたので中身は詳しく覚えていない。でも1点だけ興味を引かれた箇所があった。以下寝ぼけた頭でロギングしたので細部には自信はない。

話は女子高生のカウンセリングのケース。その子は受験で志望校に落ち、しかもその時に母親が発した不用意な一言で深く傷ついてしまった。カウンセラーからそのことを聞かされた母親は娘との溝を埋めようとするのだが、よくあるアンチパターン、「貴方のためを思っているのに」にはまって抜け出せなくなる。最後には娘からこう言われる。
「お母さんは私に何をしてくれたの?魚住先生は私のために泣いてくれたのよ。」

この場面、僕はひねくれ者なので素直に怖いと思った。
人が教祖様みたいなのに落ちるのは、まさにこういう瞬間なのだろう。
このケース、カウンセラー相手だからよかったのだが、相談した相手によってはそのままサティアンに連れて行かれたかもしれない。

その後、スタジオで専門家やらが喋るのだが、内容は陳腐で空疎だった。受験して大学に入って一流企業に入っても式の、古くさいガラクタの寄せ集めで聞くに堪えない。とはいえ重松清もその他の出演者も自分が属する分野では高い支持を得ている人達である。そうじゃなきゃテレビに呼ばれたりはしない。みなさん小説家や教育者として思想や理念を掲げている人達ではある。でもあのテレビを聴く限りでは、彼らが支持されている理由は、彼らの思想や理念にあるとは思えない。何か別の理由があるのだろう。

少し強引に論理展開すると、あの人達が看板にしている思想や理念の空虚さというのは、新興宗教が掲げる教義のガラクタさに通じるところがある。新興宗教の教義が既成のガラクタの寄せ集めに過ぎないというのはいろんなところで指摘されている。でもさんざん叩かれて分析され尽くしてしまったオウム真理教、現アレフにしたところで新たに入信する人はいるのである。他の新興宗教についてはいうまでもない。オウム真理教が世の中でフレームアップされていたころには、なぜ東大出の人があんな教義にはまるのかと疑問の声が多く上がったが、教義を信じたからオウム真理教に入信したのではあるまい。別の理由で入信して、教義を信じたのはその後だ。それはたぶん大きくはない、とても小さな理由だろう。とてもパーソナルな、でも大切な何か。それこそ「泣いてくれた」のような。

いや、そもそもこちら側はどうなのだろう。人間それなりの歳になると、宗教や哲学や思想や主義に関わり合う事になる。建前としては、我々はそこに救済や真理や希望や未来があるから信じているという事になっている。だが本当にそうなのか?何か別の理由があるんじゃないのか?そしてそれを忘れているだけじゃないのか?もしそうだとしたら、どうしてもそれを思い出さなきゃいけない。宗教や哲学や思想や主義なんてものはなくても本当は人間は生きていける。人間が生きていくのに必要なものは本当は別のものだ。それはたぶん大きくはない、とても小さなものだろう。とてもパーソナルな、でも大切な何か。

なんてことを眠れない頭で考えた。さすがに目が覚めている時に思いつける話ではないね。


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