格言について

最近,blog絡みの格言が流行そうな気配を見せている.
震源地は高林哲さんの「いやな日記」でまずはゲーテ on ブログがあちこちで引用されるようになり,次いでプルースト on ブログが流行りそうである.

ブログ有害説
新聞ブログを読まなくなってから、私は心がのびのびし、ほんとに快い気持ちでいます。人々は他の人のすることばかり気にしていて、自分の手近の義務を忘れがちです。


真に高貴な貴族の人物やサロンのことは世には伝わらない。な ぜなら彼らは回想録など書かないからだ。一方、2流、3流の貴族は 自分の生活の自慢したい面ばかり (なんとか王妃がやってきた、と か) を集めて回想録を書くので、世の人々はこういった人たちが高 貴な貴族だと勘違いしてしまう。新聞の社交欄に載る貴族の集まり もまあそんなところだ。

僕も流行に乗って一つ流行らせて見ようかと思う.ネタ元は今読んでいるジョイスの「ダブリンの市民」である.

ジョイス on ブログ
彼女は,なぜ,自分の考えを書かないのか,と彼にたずねた.何のために,と彼はわざと嘲るように言った.六十秒と続けて思考できない,美辞麗句を並べ立てる人たちと張り合うためにですか?

まあこんなものでしょ.
所詮この手の格言ごっこは知性と教養をひけらかすためのお遊びに過ぎない.
他人様が繰り出してきた格言をみて,少しばかり我が身を省みたり,または僕がやったように,似たような格言をひねり出してみるのがお遊びというものである.
真に受け止めすぎたり,何のひねりもなくリンクしたりするのは野暮の骨頂だ.
知性と教養に欠ける証拠である.


いや欠けているのはむしろ反発心かもしれない.
偉い人のお言葉といったところで,所詮は他人の言葉,死人の言葉である.
死んでいる人間の言葉に,生きている人間が素直に感じ入ったり,唯々諾々と従ってどうするというのだ?
あんたら死人の奴隷か?
死人にネクロマンサーやられて平気なのかね?


だから格言というのは嫌いなのだ.人の精神から批判精神を奪い麻痺させる役目しかもたない.
ちなみに一番嫌いな格言は,かのウィトゲンシュタインの命題「語り得ぬことには沈黙しなければならない」である.これほど都合良く乱用,いや誤用されてる格言もあるまい.たいていロクでもないやつが他人を無理矢理黙らせるために使われることが多い.
つーか,この言葉引っ張って来る奴って,ちゃんとウィトゲンシュタイン理解しているのかね?いやそれどころか読んだこともあるまい.
そんな手合いが「語り得ぬ云々」などそれこそ「語るに落ちる」だ.ロクに知らない哲学者については沈黙すべきあろう.
ウィトゲンシュタイン先生に火かき棒で根性叩き直してもらうがよろしい.


なお僕が引っ張ってきたジョイスの「なぜ,自分の考えを書かないのか」だけど,これは「ダブリンの市民」の一編,「痛ましい事故」が出自だ.
このやりとりは登場人物のミスター・ダフィとシニコー夫人の間に交わされたもので,ミスター・ダフィはこの後,「何もしない」ということにより,シニコー夫人を自殺に追いやってしまう.
彼の「何のために」で始まる反駁も実は彼の「何もしない」という性格を表している,いわゆる「麻痺」の描写なのである.
だからあの文句をここから切り取って,自分のブログのヘッダーの部分に貼り付けて,イタリックにして飾ったりしてはいけない.一見斜に構えたセリフに見えるが,実は思いっきり無気力でダウナーなセリフなのである.
このように本来の文脈から切り離された文章というのは危険な存在なのだ.引用された文章は死んだ文章である.ましてや格言集など墓場の卒塔婆に集まりに過ぎない.生きた言葉ではないのだ。


最後に,ブログにネガティブな格言ばかり流行るのは癪なので,かなりブログにポジティブな格言を紹介して結びとする.
短く,健全な文章で,これに比べれば僕が上に並べた格言など,長ったらしい,ひねくれたガラクタに過ぎないのは一目瞭然であろう.
どうせならこういう格言が流行る方がよいのだが,今の世の中ネガティブな言葉の方が流行である.
まあポジティブな言葉を口にしたり引用したりするのは今時,気恥ずかしいのは確かだ,僕もそう思う.
言い換えれば勇気が要るのだ.




「毎日書くこと.天才であろうとなかろうと」 アラン

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